昭和56年2月10日
末永静行
御理解第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
お粗末御無礼の生き方をしておったものがひとたび天地のご恩徳を分からせてもらい、教えを見守って行じさせて頂く事になってまいりますと、いよいよ信心の光によって現在の心がはっきりと分かって来るようになる。
信心の光を心に灯すからである。今まで見えなかった自分が真っ暗い部屋の中ではどんなに部屋が汚れておっても、乱れておっても分からないけれども、その中で電気が構築と思うたら、つながっておる、汚れておる( )分かるように、まず分かる、それこそ、われ屑、屑の子だと、( ?雑音できけない? )、そういう氏子の前に神様の願い、神様の思いと言うものがいよいよ厚くかけられるようになる、ね、そこに、本当の意味においての信心修行、そこを本当な受け方を致しますのが成り行きを尊び大切にするという事である、ね。神様もう一切私共の上に起きてくる一つの問題でも、ね、それは私に下さる修行だという事が分かる。ね。
だから、それを、いうなら、しだごだにせずに修行として築いていく、いよいよ、信心しておかげを受けてくれよというその神様の願いのおかげが私共の身の上に頂けて受け止めてくるようになる。為に、それこそ、その事の自覚という、自覚がでけて、そしてそこから真の信心をまずです、それを立脚点として信心が無心、立て、伏せ、限られていくのです。いわゆる、その信念を確立という事になってまいります。いよいよおかげの世界、お徳の世界に入ってく行くのです。
同時に屑の子ほどかわいいと仰せられる。その、これが神様からごらんになる、自分の自覚から生まれてくる屑の子じゃなくて、神様からごらんになる屑の子、ね、御神訓の中にありますように、「信心の道も、真の道も知らぬ人の哀れさ」と申します、信心の道も真の道も分からない人達のその哀れさ、( ? )どんなことになるのだろうと、それこそ、この世だけではないのに、あの世は長いのに、こういう生き方で真の道も知らず、信心の道も知らぬ人達は、まあ、なんと哀れな事であろうかと、神様が哀れみを感じなさる、いよいよ、私はそういうよいうな屑の子だ思うんですね。そういう、神様がかわいいと思し召しを下さっても、どうにも出来ない、神様がいかにかわいいと思うても仕方がない。
奥平の言うのという所に(片島千かたしません)という女の先生が大変、霊徳、神徳、優れた先生がおられた、ある朝の御祈念の時に神様からお伝えがあった、「世界中、氏子に話をしてみたい」と仰っておられる、世界中の氏子に話をしてみたい、一対一で神様の仕事が話せる、( )、話をしてみたい。また、話せんでもよかといわっしゃる、神様は、それこそ、哀れを模様しておらるのです。合楽で皆さんがこうして御理解を頂いてくださる事は、いうなら、一人一人に話しばしてみたいという話をさせて頂いて、いわゆる、( )、ね、だから、それを聞いて実行しておかげを受けて、初めておかげを頂く。合楽にいかにご縁を頂いておっても、神様が話して下さる事を聞いてもそれを、ね、( )頂かれる、それを行じようともしないなら、これまた、信心の道におりながら、信心の道も踏まず、( )信心を進めて行こうとしないなら、それこそ、また哀れであるということ。
この度の寒修行で、大きな( )でしょうか、別れのいっちょじゃないでしょうか、吉田さんのところ、長年ご縁を頂いておられるけれども、ほんと今日は自分の間違いば( )というが、お互い一つこの寒修行を貫かれる、間へ( )もあったりしましてから、事でしたけれども、段々お参りをしておる内に今まで、いうならば、聞く耳をもたなかった、その耳が聞こえてくるようになった。
二十日ぐらいした時でしたでしょうか、もう立派なワンピースを着ておられましたが、もう、昨日は広大なおかげを頂いて、もう思いもかけないところからこんな見事なワンピースを頂きました。帰って、ちょっとあの自動車のトランクを開けましたら、米が一斗入っておりました、勿論、それはあるところから思いもかけない人から御礼にというて、だったそうですけれども、本当に、あの、衣食の徳が受けられた、そんな感じですねと、まあ、頂けた訳じゃないだろうけれども、そう、今のあなたの信心の状態で行くなら、必ず人間の幸せの条件である、衣食住の徳が受けられるよ、まあ、それを楽しみに信心させてもらわんならん。
ちょっと回りになるそうで、うしの、こう、あるかなんかというところに、光橋先生の従兄弟さんに当たる方がおられます、御主人がもう死ぬか生きるといったような病気をして、秋山総代さんに導かれて、参ってくれるけれども、まあ、導かれるから参ってくるといったような感じである、進められるから参ってくるというような感じで、まあ、参ってみて、おかげをやっぱ受けられました。
ところが、今度はその吉田さんがその方を誘うて参ってくるようになった。初めの間はこう回って、ちょっとめんどくさいなあと思いよったら、もうそこまで、その方があんまり喜ばれるので、人に喜んでもらうという事はこんなに嬉しいこじゃろうかというような体験が心の中に生まれてきた。もう毎日毎日誘いに行くのが楽しみ、もう向こうでも、もう来て頂くだろうと思ってちゃんと待ってある、もう二人とも今度の寒修行には信心というものはこんなに、もう楽しゅうして有り難いもんだという事が分かったと二人ともそういうお届けをなさっておられます。ね。
本当に信心の教えが身についてくるとです、いうならば、自分も楽しゅうして有り難うなってくるが、同時に神様がおかげの、いうなら、お徳の印のようなものを見せてくださる、思いもかけないところからお米が、ね、思いもかけないところから着物が、ね、それこそ、米一粒買わんでも切れ一寸買わんでも合楽教会が立っておるように、ね、そういう、いうならば、上旬、おかげの受けられるお徳を受けてはじめて、ね、神様が、どうぞ信心しておかげを受けてくれよというのは、そういうおかげの事ではないでしょうか、ね。
私は今日は屑の子というその言葉を神様が仰せられる屑の子、自分達が信心が分かって、それこそ、われ屑の子であったという自覚に立って、まあ二つ、似ようのね、屑の子という事を聞いて頂いたですけれども、自分が分かってこなければなりません、自分が分かってくるともう人は見えません、自分の心だけ見つめていくのです、だから、汚れておればふきもする、乱れておれば正しもするのです、信心をそのようにして育っていくのです。ね。ただ、どうぞどうぞとおかげ受ける、願う事が信心ではない、それではやはり神様がまだまだ哀れと思し召すでしょう、ね、五年も十年も参ってきよって信心は一つも分からん、ただわがよか時だけ、お願いをする時だけ、( )参ってくるだけでは神様、いわゆる、信心しておかげを受けてくれよというのは信心して徳を受けてくれよと、ね、そして、限りない、子にも孫にも伝わっていくようなお徳を受けてくれよと、あの世にも持ってゆけるお徳を受けてくれよという事だと、いうことであります。
どうぞ。
末永静行
平成19年3月15日